内海町は周囲約30km、面積12.6キロ平方の波静かな風光明媚な瀬戸内海のほぼ中央、広島県の東南部沼隈半島の沖約500mに浮かぶ田島・横島の2つの島からなり東に沼隈町阿伏兎岬に接し、西に因島市、南は燧灘をへだて愛媛県を望む福山市最南端部に位置しています。1989年(平成元年)に開通した内海大橋が大きなインパクトをもたらし広島県東部の海洋レクリエーション拠点となりつつあります。また、町内の一部は瀬戸内海国立公園、広島県自然環境是保全地域、広島自然海浜保全地域に指定され、青い海と緑の島で豊かな備後圏の休養地として皆様にご満足していただける憩いのアイランドです。
特産
海路の要衝であり、漁業で栄えた内海の特産品のメインは水産加工品。海苔佃煮をはじめ、ねぶとの珍味、サワラの味噌漬け、デベラせんべい、小魚の干物、トコロテンなど、味も品質も新鮮そのものの水産加工品が喜ばれています。農作物では、しめじ、アスパラのピクルス、甘茶づる健康茶など。果実では瀬戸内の温暖な気候に育まれた温州みかんが、糖度が高くジューシーなことで人気があり、中四国から関西、九州方面に出荷されています。秋には観光ミカン園もミカン狩りを楽しむ家族連れで賑わいます。また、花き類では近年、カーネーションが生産高を伸ばしています。その他、養豚の肉類も生産高は多くはないものの肉質が良いことから、近隣の市場に出荷されています。こうした特産品はふれあいホールで展示販売されています。
施設・宿泊・食事処
入村式、離村式集会場所・研修会場
■うつみ市民交流センター
内海町88番地60 TEL. 084-986-3111
美しい海に隣接する多目的ホール・研修室・調理実習室・図書室・歴史民俗展示室・温水プールを兼ね備えた複合施設。すぐ傍には港湾もあり、瀬戸内美を感じさせる場所です。
■内海フィッシャリーナ
内海町ハ340-7 TEL. 084-986-3100
瀬戸内海が目前に、バックには山々がそびえ立つ素晴らしいロケーションに建つクラブハウス。クレセントビーチと平家伝説に出てくる矢の島も隣接し自然とロマンに満ちた場所です。
■福山市水産物加工センター
内海町イ1382-2地先 TEL. 084-986-2304(田島漁業共同組合)
瀬戸内海で採れた魚を鮮度良く加工できる設備があります。近くには、箱崎漁港もあり漁業の風景が身近に感じられる場所です。
宿泊施設
土産物産品
文屋(海産物)
TEL. 084-986-2555/営業時間 9:00~18:00
地元で獲れた海産物の加工・販売を行っています。
■道の駅 アリストぬまくま
TEL. 084-987-5000/営業時間 8:00~16:00
獲れたての鮮魚や、新鮮野菜が名物です。
■カネト水産(鮮魚・海産物)
TEL. 084-986-2025/営業時間 8:00~17:00
漁師がその日に獲ってきた鮮魚を販売しています。
■くうかい(海産物)
TEL. 084-986-3000/営業時間 8:00~18:00
地元で獲れた魚を店内の水槽で販売しています。
■海鮮問屋 栄丸水産(鮮魚)
TEL. 084-986-2186/営業時間 10:00~22:00
海に浮いているイカダの上の鮮魚店です。
■内海食品(天ぷら・海産物)
季節の行事
各シーズンのおススメポイントなどをご紹介致しします。漁師さんの仕事を間近で感じ、新鮮な魚を味わうことが出来る「定置網・地引網」の漁業体験や、漁師から直接魚を買うことができる「うつみ大漁まつり」「魚ぎょまつり」 など漁師町らしいイベントが目白押し!さらに、内海町にはラブパワースポットやパワースポットや 春の内海町にはお花見のスポットが多数あります。夏の内海町には家族で楽しめる海岸がります。秋の内海町では歴史探索、冬の内海町では綺麗な椿を観賞することができます。一年を通して楽しめる内海町へどうぞお越しください。
■ 定置網観光漁
開催時期:毎年4月中旬〜5月下旬 開催場所:箱崎漁港(福山市内海町236)
海に囲まれた島ならではの観光。漁師さんと一緒に網を引き揚げ、その場で美味しい料理がだべられる。
■ うつみ大漁まつり
開催時期:毎年5月3日 開催場所:箱崎漁港
毎年、定置網漁が盛んな5月の連休に行われる「うつみ大漁まつり」。漁師から新鮮な魚を直接買うことができ、漁師町の活気の良い雰囲気を味わえるお祭りです。活魚の販売から、魚乾物・珍味、海苔などの特産物販売や小学生向けの魚のすくいからステージイベントまで家族で楽しめます。
■ 魚ぎょまつり
開催時期:中止 開催場所:浜沖ふれあいパーク(うつみ市民交流センター隣)
食べて美味しい、買って嬉しい、魚いっぱいの秋祭り。脂の乗った島の魚を味わいにぜひお越しください。
内海町の歴史
福山市南部歴史と自然が調和する町
内海町は、瀬戸内海に浮かぶ田島、横島、矢ノ島、当木島が寄り添う小さな町ですが、島の緑と瀬戸内海の青のコントラストが美しい、自然環境豊かなところです。そのひとつが、横島のふれあいの森の先端にある釜戸岬。県の自然環境保全地域に指定されたこの岬にたたずむと、海に向かって切り立つ奇岩あり、波に浸食された海食洞あり、と造形の美しさに引き込まれるようです。 一方、県の自然海浜保全地区に指定されている、鳶ガ巣海岸は、古歌にも歌われた美しい海岸線とむき出し茶色の岩肌、緑の樹林が織りなす造形美が際立ちます。海辺を離れて横島の内陸に歩を進めると、こんもりと茂る釜戸山に町民のレジャースポット「ふれあいの森」があり、晴れた日には、頂上から遠く四国の山陰が望めます。さらに、田島の内浦山憩の森公園に足を伸ばすと、頂上から対岸の名勝阿伏兎観音、鞆の浦から敷名にかかる内海大橋のドライブラインまで360度のパノラマ風景が広がります。また田島の「町」地区には、明治の頃、海外で成功を収めた人々が建てた白いナマコ壁の町並みが残されており、往時の栄華がしのばれます。内海町は自然景観と歴史文化が美しく調和する風情豊かな町です。
静かな波、温暖な気候の瀬戸内海に浮かぶ内海町は、広島県東南沼隈半島の2つの島、田島・横島からなります。平成元年内海大橋で沼隈町と結ばれました。 一部瀬戸内海国立公園県自然環境保全地域に指定され、青い海と緑に囲まれた自然豊かなこの町の歴史は島の至るところにあります。
■ 那須与一ゆかりの地獄菩薩
那須与一「守り本尊」の喜正寺 1185年(文治元)那須与一宗隆が堂宇再建しました。自らの守り本尊として、陣中、肌身離さず長髪の中へ持ち歩いていた一寸八分の地獄菩薩を堂中に安置したことからだそうです。
■ 水野神社
田島の水野神社(天満)(水野勝成を祀る)祭神は福山藩主、水野勝成公。神社の正面蛙股には立沢瀉が掘り込まれてます!
■ 常楽院
常楽院(平地区)(水軍菩提寺) 福山領に入った水野勝成は、戦乱で荒廃した領内の多くの寺社を再興・修復するために力を入れました。田島村上水軍の菩提寺であった常楽院は、勝成から本堂欄間や本堂屋根瓦・山門の瓦などに水野家の沢瀉紋を許されております。
■ 六地蔵堂
六地蔵堂(七区) 2004年(平成14)堂が再建。村上家の古文書によると、「村上又左衛門就常の曾孫・又七朗が、祖父から譲り受けた由緒ある木仏と石仏の二体を百島の西林寺へ寄進し、残り6体の地蔵は、文禄の朝鮮戦役で犠牲になった戦死者を供養するために横島に安置した」とあります。
■ 胴八幡社
胴八幡社(横島八幡社内) 1700年(元禄13)、住古、藁江村、常石村、横島村3村の鎮守であった常石八幡宮の祭礼の日、横島村の氏子たちは折からの暴風で船が進まず、宮座の寄り合いに遅刻してしまった。ところが、神社ではすでに祭礼が進行しており、怒った横島村の氏子たちは、神社の御神体の奪い合いを演じ、胴体部分を懐中に入れて持ち帰ってしまいました。横島村子衆は持ち帰った御神体をしばらくは笠が岨に安置し、その後弁天社のバベの木の陰に安置して祠を建てましたが、その後になって横島八幡神社に分祀ししました。八幡神社を通称「胴八幡」とよぶようになったのはそのためだと言われています。
■ クジラ網の里
クジラ網の里・田島 江戸時代、西海捕鯨で備後田島の者は鯨網職人・双海船乗りとして西海鯨組に重用されました。
備後国田島・横島の支配者として、歴史に名を残しているのは村上水軍である。時代は室町、1428年(正長元)に守護山名時煕が因島水軍村上吉豊に田島地頭職を宛がったことが始めである。 翌1429年(永享元)、田島地頭職として村上四郎吉則が入り、天神山城跡を拠点に活動したと言われている。菩提寺は常楽院で、歴代城主の墓塔・宝篋印塔などが当時の面影を伝えている。天神山城は戦国時代、領地争いが繰り返され、最終的には能島村上家が田島・横島の領主になったといわれている。連綿とした田島村上氏家系図などは残されていないが、村上就常などは瀬戸内に勢力を伸ばした小早川隆景の旗下にあり、毛利元就の武将として従軍している。 室町時代、田島村上氏は朝鮮や明国との交易もおこない、また室町幕府遣明船の副船として田島宮丸千石、同七百石の、当時としては渡海可能な船としては最大級の大船2艘を所有し、幕府遣明船に随行していた記録が残っている。 横島城も、田島地頭職村上氏の支配下にあり、古文書には村上就常・村上和員が城主を兼帯していたともいわれている。秀吉による天下統一、海賊禁止令以後は、毛利家臣として萩に随行した者や、田島村で庄屋などをつとめたようである。 水軍の家臣達は、備後福山藩の水主役となった者や、福山藩脇湊として廻船問屋・網商人となった者がいる。また多くの者は江戸期から明治末期までの300年にわたり、クジラ組の水主・網大工として北部九州の益富鯨組・深沢鯨組・中尾鯨組などに雇用されている。鯨組組織は、大きいもので3000人を擁する。世界でも最初のマニュファクチュアを形成し、主にモリを使っていた鯨漁が、鯨網を併用することで捕獲率が上がったのである。その鯨網を作る網職人として、大網の技術を持った田島・横島の者を雇用したことが九州各地の鯨組の古文書の中に記されている。